だらだらブログ

なんかゴミです。

【だら草019】人はみな他人から見ればブラックボックスである

 

 ブログを再開するにあたって、ひとまず「問」と「答」をテンプレートにするのをやめることにした。

 「問」を更新のテーマにすると、「答」が必ず必要になってしまう。それは重荷だ。記事には「問」と「答」があるべきと書いたのは私自身だし、今でもその考え自体は変わっていない……が、ここはあくまでもブログである。記事と呼べる体裁に至ったものだけを更新する必要性がある、というわけでもない。

 すなわち、もっと散文的な思考の断片だけでも更新できるようにしておかないと、いつまで経っても再開がままならないのではないか……そういった危機感からの内部ルールの変更である。決して怠惰や意識の低さからくる妥協ではない。何をおいてもまずは継続という目標を立てるのならば、無理のないシステムを構築する必要があるのだ。

 さて、そうは言ってもテーマがないならないで散文すらままならないところではある。そんなわけで今日は道を歩いているときに脳内に降ってわいてくる小噺の話をしよう。

 小噺といっても、オチがあるわけではない。起承転結もない。したがって言うなれば妄想である。何かしらの設定を考え、そのシチュエーションにおいてどんな行動をするのが正解なのか……といったことをとりとめもなく考えることがよくある。

 たとえば、「もし今歩いているこの道端で2000万円を拾ったらどうするか?」といった塩梅だ。仮に魔がさして警察に届けることはせずにネコババした場合、どのようなシナリオが待ち受けているだろうか?拾う瞬間を誰かに目撃されていたらどうなるだろうか?自宅に持ち帰って安心したところで、尾行していた悪漢に押し入られでもしたらどうするだろうか?もちろんそんな妄想に特に意味はない。ただそうしたシナリオ想定は異常事態の発生に対して心の備えを作ることができる……と、これも設定である。

 妄想は、あるいは実体験に基づく反省や思考の反芻であることもある。先日、あるカバレージライターに「最近自分で書いてこれは会心の出来だと思ったカバレージはどれですか?」と問われたので、世間的に評判の良かったいくつかをピックアップしようと思ったが、どれも会心と言えるほどの飛び抜けた完成度があったとは思えなかった、という出来事があった。

 そのときは彼が自分でカバレージを書く際の参考にするために質問をしたという意図が感じられたので、自分が最近会心と呼べるカバレージを書いていないという事実を棚に上げるべく、「エモいカバレージを書きたいなら他人が書いたエモいカバレージを参考にするのではなく、自分が体験したエモい経験を自分というフィルターを通じてカバレージで表現した方がうまく行くと思う」と答えた。手前味噌ではあるが、けだし真理ではないかと思う。

 人はみな、他人から見れば思考の道筋も機能の再現性もわからないブラックボックスである。だからこそ、それぞれ唯一無二である個人がその人自身にしかない変換経路でエモい体験を翻訳し、言語化してみせることに価値がある。

 「同じ試合に対して4人のライターが同時かつ別々にカバレージを書く」という企画が冗談交じりで持ち上がることがよくある。上がった4つの記事は、テーマもフォーカスも文体も全く異なることだろう。それは個性が原因と言えば簡単だが、より具体的には「何をエモいと考えるか」あるいは「そもそもエモくあるべきか否か」についてそれぞれのライターがどういった主義主張を持っているかによってカバレージの内容や読み味が左右されるからだ。

 あるいは同じ人が同じ試合を見てカバレージを書くとしても、見てすぐ書くのと3年後に書くのとでは記事の趣が変わってくることだろう。それは3年という月日の間に蓄積した技量の差による部分もあるだろうが、どちらかといえばライターの思考態様が変容したり、3年の間に様々な経験を蓄積して感じ方やそのとき関心のあるテーマが変わってくるからである。

 こんな風にカバレージについては、語れることは無限にあるように思う。だが、体系化して語ることは難しい。とはいえ、語らないままでは後進に残せるものがなくなってしまう。ゆえに、こうして散文として少しずつ吐き出していくしかないのだろうと考えている。

 ところで、こうした思考実験を抵抗なく書けるようになったことは成長だろうか、鈍化だろうか?

 結論はない。しかしブログとは本来こういうものだろう。

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 Eve「心予報」

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